WABI-SABI is the Essence of Japan Beauty.【後編】
経営者とお寺の副住職。立場の異なる二人だが、考えや信念には共通するものがあった。[後編]
JBIグループ代表取締役CEOの野田泰平とつながりのある松山大耕氏。経営者とお寺の副住職、まったく立場の違う二人だが、秘めている考えや信念には共通するものがあった。
日本人が持つ「美しい」とはなにか、どのような生き方や感じ方が大切なのかなど、お互いの視点から奥が深く興味深い対談となったため、前編・後編の2回にわたりお届けします。今回は後編です。
妙心寺退蔵院 副住職
松山 大耕氏 1978年京都市生まれ。2003年東京大学大学院 農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2007年より退蔵院副住職。外国人に禅体験を紹介するツアーを企画、外国人記者クラブや各国大使館で講演を多数行うなど、日本文化の発信・交流が高く評価され、2009年5月、観光庁Visit Japan大使に任命される。また、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。2016年『日経ビジネス』誌の「次代を創る100人」に選出され、同年より「日米リーダーシッププログラム」フェローに就任。京都造形芸術大学客員教授、2018年より米・スタンフォード大客員講師。
2011年には、日本の禅宗を代表してヴァチカンで前ローマ教皇に謁見、2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。また、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界各国で宗教の垣根を超えて活動中。
情報化社会で失われた絶対的な「美」の価値観
本当に必要なのは「自由」というセンス
野田泰平(以下、野田) 私は、昨今「美」の概念が、相対的な価値観になってしまっていると感じています。本当は「幸せ」と同様に「美しさ」も絶対的な自分の価値観であるはずなのに、他者と比べている人が本当に多い。
以前、松山さんもおっしゃっていた、幸福論のうちの考え方の一つである、分子を増やすのか、分母を減らすのかという考え方でいうと、現代の人たちって分子を増やしていくばかりの幸せなのかなと思います。あの人も持っているから私も欲しいみたいな。本当の幸せって分母を減らすことだと思いますし、そのためには人と比べるのではないと思うのですが、どうしたら人と比べなくなるのでしょうか。
松山大耕(以下、松山) 昔と比べて、現代はより難しいと思います。人と自分を比べてしまう1番の原因は、SNSの登場やと思います。日常的に比較せざるを得ないような環境になっていますよね。特に、この5年、10年でみんなすごく幸せを失っている感じがします。
SNSでは、どちらかというと「私はこんなことやっています、こんな美味しいものを食べていますよ」といった、見栄えのいいことや自慢のようなことしか上げない人が多いと感じます。もちろん、みんな人間なので、辛いことや落ち込むこともたくさんあるんでしょうけど。そういうことはほとんど載せない。だから、見る側はバイアスがかかってしまって、「SNSのあの人たちはあんなにキラキラした人生を送って生きているのに、どうして私はそうじゃないの?」と思い込んでしまうのかもしれません。
野田 研究や技術が進んでいるにもかかわらず、化粧品業界では、この5年間で年々1人あたりの使用アイテム数が増え続けています。時代が逆じゃないですか。もっとシンプルにしよう、便利にしようって言っているのに全くの真逆になっています。アンチエイジングがもてはやされている風潮の中では、どうしても人と自分を比較してしまうので、たくさんの化粧品を使って、若々しく見せることだけが良しとされているように思えます。どうすれば、他者と自分を比べなくてもいい状況をつくれるのでしょうか。
松山 比較しないことは非常に難しい時代であると思うんです。現代では、ありとあらゆる物事がレーティング(数値化)されてしまうので、なんでも比較してしまうんですよね。レストランや料亭だって、グルメサイトで点数が出ているし、すぐにランク付けされてしまう。それこそこの間、妙心寺の近辺でテイクアウトできるところを探していたら、退蔵院が出てきたんですよ。よく見たらお菓子が買えるっていうことで、5位にレーティングされていたんですけど、なんじゃそりゃって思いましたよね(笑)
野田 ほんとなんじゃそりゃですね(笑)
松山 結局レーティングされてしまうから、なんでも比べてしまうんですよね。その中で、SNSの存在が、「他者と自分を比較する」という人間の性(さが)をより助長しているような気がします。だから、そういう意味では、全く比べないことは難しいですよね。しかし、昔から仏教はそこに注目をしているんですよ。「自由」という言葉がありますよね。自由は英語で「Liberty」や「Freedom」と訳されていますが、これは明治時代の大いなる誤訳。元々は、読んで字のごとく、仏教の言葉で「自らに由(よ)る」という意味なんです。
野田 「由る」ってどういう意味ですか?
松山 頼るということです。
野田 頼るということ…。
松山 自らに頼る、つまり「自分を拠り所にする」こと。だって、本来は自分が美味しいから美味しいんですよね。食べログの点数が高いから美味しいわけじゃないんですよ。自分が面白いから面白いんです。別にネットのアドバイザーの点数なんてどうでもいいんですよね。自分が面白いから面白い、自分が美味しいから美味しい。だから、「自らに由る」。
結局、端的に言うと、「自分のセンスに自信を持つ」、「他人がどう言おうと、自分がいいと思ったらいい」ということです。でも、多くの人は、自分のセンスに自信が持てないから、他人の評価に頼ってしまうんですよね。
ただ、こうしたセンスを磨くには五感が必要。禅寺や米国のスタンフォード大学などでは、この語幹を研ぎ澄ます鍛錬をおこなっています。それは、裸足で雑巾掛けをして、坐禅を組み、庭掃除をするといった純粋な修行体験なのですが、参加者の感想で最も多いのが「ご飯がこんなに美味しかったのか」というものなんですよ。修行体験で出すのは、もちろん精進料理ですから、作り手の心は込もっていますが、お野菜しか使っていないですし、高級な食材の使用や凝った味付けはしていません。
それでも「美味しい」と感じられるのは、食べることに集中しているからなんです。多くの人は、普段、食事中に話をしたり、テレビやスマホを見たりしながら食べていますよね。でも、禅寺の食べ方は、板の間に居住まいを正し、ひと言も喋らずにご飯だけを食べるんですよ。そうすると、ご飯の香りや甘味、味噌のコクなどをすごく感じながら味わえる。座禅においても、「しょうもないことばっかり考えてしまって、全然集中できないんです。」という人もたくさんいますが、それは当然なんです。
野田 確かにそうです。考えても仕方ないことばかりを、考えているときが多いかもしれません。
松山 私たちは、普段何気なく生きていると、自分がいつもしょうもないことを考えていることにすら気付かないんですよ。例えば、ここで座禅を組み、ピタッと止まって静かに過ごすと、そこにある滝の音や鳥のさえずりが聞こえるはずです。実は、普段も聞こえてはいるんですけど、人間の脳は優秀すぎて、全てノイズとしてキャンセルしちゃうんです。本当は感じられていた香りや音が全部ぼやけてしまって感じられない。でも、人それぞれですが、五感がしっかりしていたら「私はこうだから、これでいい」っていう自信に繋がっていくんですよね。
野田 五感って、どうやって鍛えればいいのでしょうか?
松山 それは、自分でやるしかありません。禅の言葉で「冷暖自知」という言葉があります。「冷たい、暖かいを自ら知る」というものです。現代は情報化社会なので、情報を得ただけで経験した気になっている人も少なくありません。
例えば今、私たちのいる場所は、気温が25度ぐらいでまあまあ快適に感じますが、25度の水を頭からかぶった時の冷たさは全く違いますよね。同じ温度下にある外の木の感触だって異なります。25度という気温だけ知っていても、25度の空気と25度の感触と25度の水の冷たさは全く違うじゃないですか。
現代人の多くに、こうしたリアリティが欠けているように思います。自分で経験を積み重ねていくことが「自らに由る」、つまり、本当の「自由」につながっていくのではないでしょうか。
現代人に欠けている、「ほんまか?」の精神
野田 私たちは、お客様に直接ものをお売りするというBtoCのビジネススタイルで経営していますが、ずっと1番大事にしていることが、「本当に自分の肌が美味しいと思えるものしか売らない」。実際フランスの工場に行って、自分たちの石鹸の泡を見て、香りを楽しんでいます。世の中にはいろんな石鹸がたくさんがあるかもしれませんが、「世界中でも最高なものはこれなんだ!」って言い続けるために、ものを増やすことではなく、シンプルにすることこそがイノベーションなんだと示し続けています。
先ほどもお話しした通り、私たちの石鹸はフランスの工場で製造していますが、商品開発は自社でおこなっています。いい成分が生まれたら試作をしますが、「最高だ」と言えるまで、絶えずチャレンジし続けています。会社の代表として「これが世界最高のものです」と言える商品でないと、お客様にお届けできないですから。
松山 その考え方は非常に大事です。私は、最近の日本のメーカーや飲食店など、どの分野でもマスを取ろうとしすぎていると感じています。ものづくりにおいて「自分はこれがいい」という自信が決定的にかけている。
飲食店で例えると、データに基づいて作った料理は、美味しくない。新しいメニューを作ろうとすると、大体多くの人がマーケットリサーチをしますよね。集めたデータの正規分布で、出てきた結果の1番高い数値のものを取っていくわけですよ。そうすると結果は「不味くない」メニューができるわけです。でも、本当に美味いお店は、そんなこと絶対にしない。店主自ら様々なお店に足を運び、研究と試作を重ねて、自分が「よし」と思った最高のものを提供するから、美味しいんですよ。野田さんがおっしゃったように、「自分が最高だと思うからこれをする」といった動機を持っている経営者さんや会社は、今、本当に少ないと思います。
野田 それこそが真の「自(分に)由(る)」であり、他者と比較するものではないですよね。こうした違いのわかる人、自由な人は、どうやったら増やしていけるのでしょうか。
松山 本当にいいものを分かる人は多くはありませんが、ちゃんと分かる人に届けることができないと、事業や店、サービスは永く続かないですよね。口コミで知る人もいますし、経営者の人柄に惹きつけられる人もいるでしょうし、分かる人が集まることで広がっていくと思います。「だんだん集まってくる」ということが鍵ではないでしょうか。
野田 子どもたちが本当にいいものを選べるようになるには、どんな教育をすればいいのでしょう?
松山 とにかく自分で「ほんまか?」、「お前(自分は)それやったんか?」ということを大事にすることです。80歳で九州から京都にいらっしゃった妙心寺第677世の東海大光老師は、この「ほんまか?」を体現されていた人です。ずっとテレビのない生活を送られていた方やったんですが、あるときポップコーンを食べていた子どもを見て、「それは何じゃ?食べさせてくれ」と言って口に入れました。味が気に入った老師は、付き人の弟子に買いに行かせて「このポップコーンの豆を取り出して育てろ」って言ったんですよ。「(油に浸かっているから)普通にしたら種子が死んでしまうから、お風呂のなかに入れて油を軽く溶かし、剥がして中性洗剤で洗い、ちゃんと土をつくって埋めてみなさい。」と指示されて、その通りにすると、なんと芽が出たんですよね。
野田 生きていたんですか!?種が。
松山 そうなんですよ。そこから本当にポップコーンが取れるようになったと聞いて、やはり老師はすごい、さすが禅僧だ、と感嘆しました。なぜなら、普通の人はそんな発想をしないし、したとしても実際にやってみようとか思わないじゃないですか。現代人はみんな賢いから、「どうせこうだろう」「そうに決まっている」と決めつけて何もしない人が多い。でも、実際にやってみることは原始的な方法かもしれないけれど、結局は大切なことを教えてくれるんですよね。こうした「ほんまか?」という精神が、現代人に最も欠けていると思います。
「私はこれでいい」、自由という名の「美しさ」
新たな価値観へシフトするチャンス
野田 私たちP.G.C.D.のお客様は、「私は私」「私はこれでいいのよ」って、ちゃんと自分を持っていらっしゃる、まさに「自由」な方ばかりです。でも、年齢を重ねたお客様からは、「シンプルなアイテムばかりだと困るのかしら」といったお声もいただきます。私たちとしては、「エイジング(時間)は恐れることではない」「大丈夫ですよ」と伝えたい。今後、お客様たちとそんなコミュニケーションをしていきたいと思っています。
松山 人の美しさは、いわゆる肌艶などではなくて、生き方とか雰囲気とかそれで完全に決まりますからね。それを実感したのが、私が修行道場に入ったときです。私は大学まではセオリーファーストで考える人間だったので、とにかく道場のやり方にすごく不満を抱いていました。
一例を挙げると、食事の際、ご飯をつぐ係がいるのですが、1年目、2年目の下回りの人が行います。その人たちは、とにかく何をやっても頭ごなしに怒鳴られるんです。例えば、胸の装飾が曲がっているとか、ご飯をつぐために差し出した手の指がちょっと開いているとか。些細な動きや、抽象的でよくわからないことでも怒られます。「なんでこんなことすんねん。普通に美味しくご飯食べたらええやんか。」と私は納得ができなかったのですが、2、3年修行してみると、どれだけ出来のいい新人修行僧よりも、怒鳴られ続けてきた先輩修行僧の方が、お辞儀の仕方、廊下の足音、襖の開け閉めなど、全然違うんですよ。何においても、立ち居振る舞いが非常に美しくなります。
野田 それはなぜですか?
松山 やはり基本の型を大事にして、ずっと言われ続けるからそうなってくるんですよ。妙心寺639世の山田無文老師は、身長150センチほどの小柄な方でしたが、宗教家として人前に出ると、場が鎮まるのです。これはオーラがそうさせるわけですよ。こうしたオーラは論理的に言えることではなく、とにかく日々の鍛錬を通じて、美しい型をずっと守り続けていく中で身に付いた1つの人間性と言えるでしょう。人の美しさも、おそらく同じではないでしょうか。外見だけ装っていても、その人の話し方や姿勢、内面が美しくなければ、印象に残らないですよね。例えば、歌手でもすごく歌が上手な人と頭にずっと残る人って違うじゃないですか。きっとそういうところが滲み出ているんだと思うんですよね。
野田 すごく共感します。美しさとは、規定されているものではないと思います。日本の美しさとは、本質だけを残した美しさ。侘寂のように時間を経て到達する美、その人が持つ日々の習慣で作られている美など、美しさには様々な背景がありますよね。
逆に、「美しい」の反対語で「穢れ」という言葉がありますが、「穢れている」とは、本物ということや本質ということから逃げて、様々なものを足し合わせて混ざってしまった汚らわしさなのではないでしょうか。そういう意味では、日本語の「美しい」は、英語の「Beautiful」とは全く異なり、日本らしい時間軸のある言葉だと思っています。
松山 P.G.C.D.のご愛用者は、「私はこれでいいのよ」という自信があり、時間の使い方も人生の選択もご自身で決断されてきたのでしょうね。それが総合的に美しさに繋がっていくと思います。
私もよく「松山さんってすごくいろんなことをやっていますよね。何でそんなにいろんなことができるんですか?」と言われます。自分としては全くそういう意識はないのですが、でもある種当然やなって思うんですよ。なぜかというと、通勤時間1時間のOLさんと私を比較してみると、まず私の場合、起きて30秒で職場なので通勤の時間が短いんですよね。そして、お化粧がいらないし、ドライヤーで髪を乾かす必要もないんです。そうすると、私はOLの方より1日大体3時間くらい得をしています。ひと語学習得するために必要な時間は、おおよそ1000時間って言われています。365日×3時間で計算すると、1年間でひと語学を習得することができるんですよ。そう考えると色々できるなと思いますよね。
洗髪や洗顔に関しても御社の石鹸に替えるだけで、1日の中だと5分くらいの短い時間かもしれませんが、年間を通してみると物凄い時間の差が出てきて、その時間で他にできることがあるだろうなと思います。そういう小さなことも、おそらく美しさに繋がってくるのではないかなと思います。
野田 そうですね。先ほどの「自(らに)由(る)」のお話のように、今は情報化社会で何事も比較しやすい時代だからこそ、他人と自分を比べることなく、自立する勇気を持つのが大切ですよね。そういうことを、本当は日本の人たちに知って欲しいし、学んで欲しいです。
松山 そういう意味では、今はチャンスなんです。日本の歴史を振り返ると、鎌倉時代など天災が続き、混乱を極めた時代に、偉大な僧侶がたくさん登場しました。浄土真宗を生んだ親鸞や、日蓮宗を生んだ日蓮、臨済宗もそうです。なぜなら、国難により、人々の価値観が大きく変容したからです。
私たちも自粛生活を経験して、これまで正しいとされてきたことが、「本当にそうだったのか?」と疑問を抱いたこともあったでしょう。「毎朝30分かけてメイクしていたけど、テレワークだし眉毛だけ描いておけばいいよね」とか(笑)。そもそも論がやりやすい時代になったわけですよね。
野田 そもそも論がやりやすい。物事の本質や原点に立ち返って、必要性や存在意義を確かめるってことですね。まさしく「ほんまか?」ですね。
松山 だから、「美」とは何か、「幸せ」とは何かを考える非常にいい機会であり、凝り固まった価値観を見直すチャンスだと思います。
野田 そうですね。みんなで考えていきたいですね。それが、本当の「自由」ということですよね。今日は、充実した時間をありがとうございました。
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