【7月開始の個展】美術家ミヤケマイ氏に迫るアート対談[パート1]
【ART PROJECT with P.G.C.D.特別企画】
Respect the Artistミヤケマイ×P.G.C.D.代表 野田 泰平[パート1]
アートを通して自分の美的価値観を発見し、新しい自分に出会うP.G.C.D.のプロジェクト『ART PROJECT with P.G.C.D.』。
7月より第3回目となるアート個展を開催しています。
今回ご参加いただくのは美術家のミヤケマイ氏です。
開催は南青山にあるP.G.C.D.本社併設アートギャラリー「JBIG meets Art gallery」。
今回もアーティストと一緒に作品が作れるワークショップなど、お客様参加型のイベントなどを企画中ですので、ぜひ開催を楽しみにお待ちください。
本日は、個展に先立ち、美術家のミヤケマイ氏がどんな方なのか、P.G.C.D.代表との対談をお届けいたします。滋賀県にあるアトリエにて、今までの経歴やアートに対する考えなどをたっぷりと語っていただきました。
どんなお仕事をされていますか? 美術家ミヤケマイ氏って?
野田 泰平(以下、野田)
今日はMaison de P.G.C.D.の「アート」というテーマで、芸術家のミヤケマイさんに来ていただきました。よろしくお願いいたします。
早速なんですが、まず簡単に自己紹介をお願いします。
ミヤケマイ(以下、ミヤケ)
ミヤケマイと申します。空間構成の作家をしておりますが、いわゆる「サイトスペシフィックなインスタレーション」というジャンルの仕事をしています。
サイトスペシフィックというのは、その場所からインスピレーションを得て、その場所で成立する空間構成、いわゆるインスタレーションの作家です。
インスタレーションの作家さんは、レディメードといって巷で買えたりするものなど、既存のものを使って空間構成をする方が多いんですけれども、私の場合、それら一つ一つが日本の伝統的な手法などを取り入れた作品で空間構成をしています。
日本の独自の美意識や工芸などをバックグラウンドに持つ手法と、人工知能やプロジェクションなど最先端の技術を主工芸品という枠組みで組み合わせて、一つの空間構成を作るのが私の仕事としてます。
野田
ありがとうございます。
ミヤケさんの今までの作家活動では、資生堂さんなど、色々な企業との仕事も多かったと伺っています。その代表的なお話を教えていただけますか。
ミヤケ
そうですね。一番最初に企業さんのお仕事をいただいたのは銀座のメゾン エルメスのウィンドウの展示でした。
年に何人か現代美術作家が選ばれるのですが、空間なので当時は平面の作家は起用していらっしゃらず。当時の私はまだペインター的な作品構成でした。
私の展示を見に来てくださった当時のディレクターさんが「ミヤケさんは平面の作家だけど、空間把握能力が抜群に高いからできそうな気がする。やってみる?」と言われて。「やったことないけど、面白そうだからやってみます。」ということで、そこから私のインスタレーション人生が始まりました。
やってみたら、ものすごく楽しくて。なんだ、自分は元々やりたかったのはこういうことなのかと気が付きました。
その後は、大きなもので言うと、ポーラさん。美術館をお持ちなので展示させていただいて。
その流れでポーラさんのポイントギフトで日本の職人と現代美術の作家を掛け合わしてものを作るというプロジェクトや、資生堂さんのザ・ギンザというビルの改修で。
そこを文化の発信基地にしたいというお話があって、最初のコンセプトのブレインストーミングから入り外部ディレクターとしてウィンドウで工芸と現代美術の作家をウィンドウの中でクロスオーバーさせる展示をさせてもらいました。
私が作品でよく取り上げてた『陰陽五行』という、東洋の陰と陽と五行という五つの要素(木・火・土・金・水)が世界を構築しているという考え方の中の五行をテーマにBeauty Temple というコンセプトに基づいたShiseido THE STOREでアートディレクションさせていただき私が素敵だと思う人で、かつその五行のエレメントに合う作品を作れる人を招いた展示を数年やらせていただきました。
文学部から美術家へ。好きなことをやって生きていこう。
野田
最初はペインターだったと仰っていましたが、どういうバックグラウンドからアートをご自分のライフワークにされてきたのかという、人生の話を聞かせてもらっていいですか?
ミヤケ
なんで美術家になったかっていうと、本当に正直に言うと、ほかのものがダメで、消去法でここしか残っていなくて、下げ止まって、流れ着いた感じはあるんです。
ただ、じゃあ美術でやっていこうと思った時に、自分で考えたこととしては、例えば海外の美術館に行ったり、画集を見たりとかしてても、「あ、これすごい好き」とか思うじゃないですか。例えばまあ、子供の頃だったらエゴン・シーレとかミュシャとか好きだったなあとか。あと、大きくなってからもアグネス・マーティンとか。
『直感的にこの人のこれが好き』みたいなものがあって、調べたら全部日本からインスパイアされてるとか、東洋の影響を受けて作った作品ですみたいのが出てきたんです。
私の好きなものがことごとく日本インスパイアもしくは東洋インスパイアの作品しか刺さらない人なんだということがわかって、もう断念したんです。
私は日本美や、日本の美的感覚とかに興味が出て、日本の美っていうものは何なんだろう。海外の彼らが抽出したのはなんなんだったんだろうと興味を持ちました。
そこから日本文化が持つ美しさの間合いとか、日本の美っていうものが何によって構成されているのかっていうのを分解したり、レイヤーにしたりして、内包する作品によりなっていきました。
野田
大学時代から芸術学部だったんですか?
ミヤケ
そうじゃないです。私は美術は独学で文学部出身。青山学院大学の英米文学専攻でした。
野田
その時は、まだアートに移行されたわけではなのですよね?
ミヤケ
そうですね。私の中では未分化というか、文学も絵画も音楽も全部アートみたいな感じで、そういうものが大好きだったのですけど。
ただ私、一応、多摩美術大学とか受かっていたのです。高校は美術進学が有名な学校に行っていて、歴代美術部部長は芸大に入るっていう高校で、初めて歴代の部長で美大に行かなかったっていう部長です。
一応、東京藝術大学と多摩美術大学を受けて、東京藝術大学は最終まで行き、最終で落とされました、、けど正直デッサンも何も勉強しないでよくそこまで残ったなと。
多摩美術大学は受かってるんですけど、両校とも美術部の先生に勧められるままに受けたので、合格後に自分で調べたらキャンパスまでが遠いことが分かって通うのが無理だと判断して、近いところにしました。
野田
ペインターになる手前では、学問など感性の方で学ばれていたんですね。大学時代は一度、創作活動からは離れるわけですよね?
ミヤケ
いや、大学時代は四年間 陶芸を学外の窯に通って、結構真面目にやっていたり
それ以外にも、大学も今でいうZIN、同人誌を作ったりするところで表紙の絵と文をを描いていました。
絵をずっと子供の頃から描いていて、学生レベルですけど周りからも絵を褒められていて。
クラスメートが「わたしのお姉ちゃんが雑誌社に勤めているから、マイは雑誌の挿絵とかの仕事したらいいのに」って言われて、友達が見せに行ってくれて。
そうしたら「じゃあまず占いのページ描いてみて」と運よく仕事が来て、実は在学中から挿絵をやっていました。
その後、それが目に留まって、フレーベル館という童話のところでも絵を描いたりとか、在学中にも実は絵を描いてお金はいただいていたのです。
野田
すごいですね。
その後、大学卒業してから、フランスに行って学ばれたとお聞きしたのですが。
ミヤケ
はい、いいところだけ切り取るとそうなんですけど…。
大学を出てからは、一度普通に就職したんです。ですが長く続かなくて。
一年ぴったりで会社を辞めてしまい、そういう色んな挫折があって。
それで、最終的にこんなに生きていくのが大変なら、『苦労するなら好きなことだけやって生きていこう』って思ったんですね。
野田
なるほど。
ミヤケ
学生時代にバイト程度ですが絵でいくばくかのお金を頂戴した経験があり、
好きなことっていう時に、文章だとさすがになにか芥川賞とかを取らないと食べられないイメージがあり、絵なら、ちょっと差し絵的な物とかお仕事いただけないだろうかと。
すごく安直ですよね。今思うと本当に自分が先生だったら絶対止めるタイプの学生だったと思うんですけど、そんな追い詰められているのにのんびりした選択をしてしまい、なんとなく美術の方向に行った感じでした。
美術界のわらしべ長者? 小さなギャラリーから水戸芸術館の新人発掘の個展に大抜擢!
ミヤケ
それから、最初に拾ってもらったのが新橋の小さいギャラリーでした。
それはバイトみたいなお仕事をしていたときに、知り合いのアートディレクターさんが「知り合いに頼まれた仕事でお金が出せないから、代わりにメシ奢るから描いて」って言われてやったもので。たまたま美術手帳の翻訳をされている方の、骨董修復士の免許を取りましたというお知らせの仕事だったんです。
美術界の方のお知らせなので、美術界の方にいっぱい送られて。そうしたら、たまたま新橋のギャラリーオーナーさんが『この子は誰だ』って問い合わせが来て。
野田
おおすごい。
ミヤケ
『作品を発表したことはあるのか、個展をやる気はあるのか』って話になって。
美大の友達が周りにいたので、みんな個展の度にバイト代をつぎ込んでお金がなくなっている魔のサイクルを見ていたので、「個展やらないか?」って言われた時も、「いやいや、絶対嫌です」みたいな感じで。
「なんでそんなに絶対嫌なの?」って言われて「個展やったらお金かかりますよね、でもお金ないので」と断ったら、笑いながら「それは貸画廊でしょ?」って言われて。
私は当時、貸画廊と企画展の違いが分かっていなくて。
学生が個展をやる貸画廊は、自分でお金を払って場所を借りて、仲間でやって絵が一枚も売れなくて、その分借金していくような世界だったので当時は。
でも企画展は、お金を全部出してあげるから20枚ぐらい絵を描いてくれればいいからって。
私は幼稚園くらいの頃からだいたい一日に一、二枚は描いてなので、20枚なんて10日描けばできるから簡単って思って、「やります」って安請け合いしてしてしまったのです。
野田
いきなり個展だったんですね。
ミヤケ
そこが始まりだったんですが、その頃はもうバブルが終わって、色んなところが倒産して、銀座の老舗ギャラリーもクローズする暗い時代に私は出てきたので。
オーナーも、そんな時に全然よくわからない人に個展やらせて正気の沙汰じゃないですよね。多分何も売れないから、もう何でも良かったのかなとも思うのですけど、いづれにせよチャンスをいただき、それでやってみたらビギナーズラックで完売したんです
野田
すごい。
ミヤケ
まあ、原価計算とかでまだできてないので、値段もめちゃくちゃで。
表具代より安い値段をつけて。完売したのに赤字ってどういうことなんだろう?って思って絵で食べるのって大変と(いまだに思ってますがw)思ってました。
その当時、雑誌とかに取り上げられたりしたんですけど、運命が大きく変わったのは、そのあと大手からいくつかお話しいただいた時です。
当時は若くて何もわからないので、自分の希望も通らなかったので、いかなかったんですよね。
同じギャラリーにいたもう一人も引き抜きにあって、その子は美大出身で美術界のことをわかっていたので「現代美術は大箱ついたら行かないと」って言って、華々しくデビューして有名になっていくんですよね。
私はその間、ずっとその小さいギャラリーで展示をしていました。
大箱に行った友達の個展には、やっぱりキュレーターや色んな人が見に来るのですけど、私が同じ時期に近くに個展をやっていても口コミでしか人が来なかったです。
でも、友達のところに見に来ていた浅井さんっていう水戸芸術館のキュレーターさんがいて、友達が私の個展を紹介してくれて来てくれたんです。
そしたら展示を見てくれて、「ミヤケさん、今年の秋はどんな仕事してるの?」って言われて。「仕事は何もないです」って答えたら、水戸芸術館の新人発掘のクオリテリアムという個展に抜擢されました。
初めて、業界にミヤケマイという作家が微かに知られたきっかけだと思います。
野田
なるほど。面白いですね。
ミヤケ
私は、わらしべ長者とよく言われるのですが。この業界で何の地縁もなく知り合いも一人もなく、藁からちょっとずつ牛歩で美術館の展示やバーゼルまで歩いてきた感じです。
野田
学生時代の絵日記から始まって、それがどんどん広がって。
ミヤケ
いや本当に、意外に私は兎イメージがあるかもしれないのですが、牛歩タイプなのです。あんまりそういうイメージを持たれていないのですけど、割と確実堅実に石橋を叩いて渡らないみたいな性格をしていていたのが、結果的に20年間お仕事させていただいているのかなと。
野田
いや、なんだかアーティストさんたちの作品をたくさん見させていただいていますが、何故この作品に辿り着いているのか、一人、一人の背景があるんだなと。
現代美術の面白さっていうのはそれを聞ける面白さでもありますよね。
いや、大変面白い話でした。ありがとうございます。
続いてのパート2でも色々とお話を伺っていきたいと思います。
美術家 ミヤケマイ氏から皆さまへ、メッセージ
個展 情報
ART PROJECT with P.G.C.D.
Respect the Artist
ミヤケマイ
「ハクチョウの唄」
期間:2023年7月1日(土)〜9月30日(土)まで
場所:JBIG meets Art gallery
〒107-0062 東京都港区南青山 7-4-2 アトリウム青山
※完全予約制・入場無料
※不定休のためご予約
<来場ご予約はこちら>
▼P.G.C.D.公式サイトはこちら